(H16・7・6)
札幌農学校(現在の北海道大学)の教授を振り出しに、第一高等学校の校長、京都大学や
東京大学の教授、東京女子大学の学長をつとめ、たくさんの優れた人々を育てました。
また、稲造は、日本人の心を世界の人々に伝えることに力を注ぎました。
なかでも代表的な著書「武士道(日本の魂)」は、アメリカで出版されるとたちまち大評判になり、
当時のアメリカの大統領も数十冊を買い、子供や友人に配ったと言われています。
「武士道」は、日本の武士(サムライ)の生き方を紹介しながら、日本人の心を
西洋の人々にわかりやすく書いたものでした。
また、新聞や雑誌に社会と人の生き方、心のもちかたなど、優しい文章で書き、
多くの人々に希望と勇気を与えました。
大正9年から15年まで、国際連盟の事務次長として、世界平和のため、そして日本と世界のかけ橋として活躍し、
「国際連盟には、稲造ほど優れた人物はいない。ジュネーブの星である」といわれるまでになりました。
しかし、当時の日本の社会は軍国主義へと向かっていく時代であり、平和主義自由主義者であった稲造の考えは
たやすく受け入れられず、昭和8年71歳でなっても、稲造の実績を知る人はあまりいませんでした。
でも、いまになって、新渡戸稲造の国際人としてのすばらしさが、見直されてきています。
盛岡の岩手公園(盛岡城跡)の中に、
「願はくはわれ太平洋の橋とならん」という文字のきざまれた碑がたてられています。
明治24年、稲造は、メリー・エルキントンさんと結婚しました。
私の夫は時折「私はもっと苦しまなければ先祖にすまない」と申して、私を悲しませました。
私は、夫の先祖に対して当然尊敬の念を抱いておりますが、私には先祖がぐるになって彼を
打ち殺そうとしているように思われたことでした。これ等の父、祖父、曽祖父の三人は、学者、
先駆者、藩外務官で、皆稲造の才能と人格の形成に寄与しました。先祖から贈られた
魅力ある性格の遺産に、まことに彼の持つ精神的推進力が加えられ、彼を最高度の努力へと
駆り立てました。それは、青年時代から、「幸いなる人の定命である「七十年」が過ぎ去るまで
続けられました。
メリー・P・E・ニトベ(「幼き日の思い出」エピローグより)