高村山荘(H16・5・29)
高村光太郎
高村光太郎の山荘(小さな家屋)に入ると、ここでの生活がどんなに厳しかったかが分かります。
その後、青森県から依頼された十和田湖畔の「乙女の像」の制作のため東京に戻ります。
あの頃
人を信じることは人を救ふ。
いま十和田湖畔に立つ光太郎の彫刻作品としての遺作「乙女の像」の
妻・智恵子への愛に生きた詩人・彫刻家
光太郎は第2次大戦中(昭和20年)、東京のアトリエを空襲で消失してから賢治を頼って花巻に疎開して、
何もない粗末な小屋で7年間の長期に渡り一人で農耕自炊生活にはいります。

かなり不良性のあつたわたくしを
智惠子は頭から信じてかかった。
いきなり内懐に飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失った。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを
知らされてわたくしはたじろいた。
少しめんくらってたちなほり、
智惠子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
或日はっと気がついた。
わたくしの眼から珍しい涙がながれ、
わたくしはあらためて智惠子に向った。
智惠子はにこやかにわたくしを迎ヘ、
その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。
わたくしはその甘美に酔つて一切を忘れた。
わたくしの猛獣性をさへ物ともしない
この天の族なる一女性の不可思議力に
無頼のわたくしは初めて自分の位置を知った。
(智惠子抄より)
智恵子との出会いは、光太郎の詩も生活もそして思想さえ変えていきました。
しかし智恵子は1938年(昭和13年)、精神分裂症のため他界します。
智恵子の死による精神的打撃は大きく、光太郎は、
一時は芸術的製作も目標を失い空虚感にとりつかれるのでした。
光太郎の智恵子への純粋な愛の強さ、深さは不滅の代表作として
残された詩集「智恵子抄」に残されています。
裸婦にも智恵子の面影が残されているといわれます。